アフリカとの出会い41

 「叔父さんがいなくなった!」
   

竹田悦子 アフリカンコネクション
 
 今年の2月下旬頃、ケニアからの電話で、夫の叔父さんがいなくなったとの連絡があった。叔父さんというのは、夫のお母さんの妹の連れ合いである。私がケニアで仕事をしていた時、なんどか不意に叔母さんの家を訪ねてはいつも長居をした。居心地よく心温まる家庭だった。つまりその家の「お父さん」がいなくなったのだ。

 叔父さんの住むOthya(オザヤ)村は、ナイロビを北上すること車で2時間くらいのキクユ族の村である。当時は直行バスが出ていなかったので、ナイロビからニエリという町まで行って、そこで小さなバスに乗り換えてオザヤまで行き、その後更に乗り合いタクシーに乗って叔父さんの家のある村まで行くのだ。待ち時間を含めると実に4~5時間はかかり、文字通り近くて遠い村といえた。

  写真→ 叔父さん(右)と夫のガスパレイ お茶畑で


 オザヤ村は、現大統領のムワイ・キバキの故郷として有名で、ケニアで有数の紅茶の産地だ。叔父さんの家はその紅茶用のお茶を栽培する農家で、茶畑を望む高台にあり、家の庭から山の側面を利用して茶畑が続いている。その茶畑を見ていると、その広がりの美しさは息を呑むばかりだ。きらきらと眩しく輝く太陽の下、青々と伸びる紅茶の芽。ケニアでは珍しい涼しい風が時折吹き抜ける。これらのどれもが合わさってアフリカの大地の豊かさと美しさを感じさせてくれた。

 叔父さんは本業は大工で、仕事があると数日間は家には戻らず家や建物の建築に携わり、一方家族と一緒の時は茶を栽培する典型的な農村生活をしていた。育ち盛りの子供が3人いる。家族思いの叔父さんが自分で建てた家に住み、そこから仕事で出かけ、子供を学校に通わせ、家族と一緒に畑を守るという昔ながらのキクユ族の生活を大事に守り続けていた。そんな叔父さんが、突然、出掛けたきり戻らないというのだ。

 ケニアの学校の多くは、旧植民地の宗主国であったイギリスの教育システムを取り入れたままである為、新学期は9月から始まる。9月~12月、1月~3月、4月~7月の3学期制で、学費はそれぞれの学期が始まる前に、まとめて納めるのが一般的だ。行方が知れなくなったその日、叔父さんは、4月から始まる分の学費が足りなくて親戚に借りに出かけていった。そして音信不通になる直前の電話で「足りないお金は親戚から借りることが出来た」と伝えてきたそうだ。

 叔父さんがオザヤ村から他の地域に出かけた形跡はなく、地元にずっといたことはその後の警察の調べで分かった。しかし、どこのだれに会っていたのかは分からなかったという。

 連絡が取れなくなって数日後、親戚の多くがオザヤ村に集まり、警察に捜査を依頼し、ラジオ・新聞の行方不明欄に記事を載せ、子供たちの学費は親戚の募金で集めた。ケニアでは18歳になると国に申請して身分証明書としてIDカードを発行してもらえる。が、叔父さんはそれも自宅に置いたままだったそうで他人に身分を証明するものはなく、最悪の場合も親戚は考えた。電話口でお金が手に入ったと口にした叔父さん。その会話を聞いた誰かが‘お金目当て’にということもケニアでは十分に考えられることだ。親戚たちは、叔父さんの家族には内緒で病院や警察の遺体安置所も歩いて調べて回ったとのことだ。

 普段の仕事は、何度頼んでもゆっくりぺースだが、家族や親族のこととなると素早く団結し、協力し合う様子を聞いてすっかり感心した。仕事が速い! 本当は出来るではないか!と思いつつ、家族の繫がりの強さをとても羨ましく思った。

 「あなたと子供たちの将来は、地域と親戚の大人たちが責任を持って面倒を見ます」と、親戚の代表が残された叔父さん家族に伝えたという。そしてこれまで通りに紅茶畑で仕事するように助言し、親戚の女性たちはしばらく叔父さんの家で、残された家族と生活を共にした。子供達は、親戚達が代わりに支払った学費で4月からも継続して学校へ通う。


 ケニアにいた折、突然訪ねても「おかえり。よく来たね、私の娘」といって笑ってくれた叔父さん。「アフリカを知りたいなら、農村だよ。全部みんなと一緒にやってみればいいよ」と、紅茶畑に籠を背負って行った。一緒に新芽を選んで収穫し、それを背負って地域のセンターに行き、紅茶の工場のトラックが来るのを農家の人たちと一緒に待ち、それを計量し、積みこんでもらう。そのキロ数でお金を受け取った。

 その後、最寄りの紅茶工場にも連れて行ってくれた。Iriaini tea factory(イリアイニ紅茶工場)では、本当は従業員以外入れないところを、叔父さんは「ケニアの経済を研究している研究者だから」といって紹介してくれた。工場の隅々まで一緒に回り、緑の葉っぱが紅茶になっていく過程を共に見学した。

 「君のおかげで、紅茶になる過程を全部見ることが出来たよ。農家は卸すだけだからね。いやぁ、勉強になった」
と逆に感謝してくれた。

急速に発展していくケニア経済の中にあって、農村での家族の暮らしを大切なものとしてずうっと守り続けてきた叔父さんだった。

 比較的結婚するのが早いケニアの男性達だが、叔父さんは30代後半になってやっと結婚した。選んだ女性は私の夫の叔母さん、キクユの村の中でも一番笑い声が大きくて、体も大きい豪快なアフリカンママだった。彼女のいるところではいつもあたりに笑い声が響き渡り、家族の間でも笑いが絶えなかった。その彼女は、今、声を出すのがやっとだそうだ。

 
「家族がいて、生活があって、ここにいて、私、幸せなのよ」といつも私に笑顔で語っていた叔母の顔を思い出す。

 ケニア人の男性と結婚し、新しく親戚になったケニアの人々の行動を、遠い日本で伝え聞き胸を痛めている。私にも出来ることが何かないだろうかと考える。叔父さん、帰ってきて!


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